あいだにあるもの(クオリア)

「私の首から下の身体」は世界の中に在ります。 “わたし”はその世界を外から観ているものです。 

目覚ましをかけたのは自分なのか?。

NO.191

その声は、
   “ゆりかごに目覚ましを入れて、一緒に起きるように”  と言った。

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神。

NO.190

“わたし”は、私の動きに気付いている。


昨日、私がやったことを、今、思い出せるのは、

昨日、私がやっていたときに、“観ていた者”がいたからである。

この者は、私が何かをしているのを、いつも知っている。

いつも後ろから、私を観ているのだ。

これが“本当のわたし”
つまり、神である。

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私と世界が入れ替わるとき。

NO.189

自分の言ったこと、やったことによって、「私」が固定されていきます。

この「私」はプラスです。 「有」です。

この「有」と云う視線から、いつも世界を見ています。


この「有」を捨てたとき、
世界だけがそこに残っています。

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「被さってきている世界」を看破して、RPGと成る。

NO.188 

“わたしの内側の世界”と、「マトリックスの世界」とは違ったものです。

いま、私の中にはこの2つがあり、この違いが見て取れます。

“わたしの内側の世界” に、「マトリックスの世界」が被さってきているのです。

被さってきている「マトリックスの世界」は、私たちが作り出しているものです。

この「マトリックスの檻」に、自分で自分を閉じ込めてしまっています。


この「マトリックスの世界」と云うのは、「価値判断、思考」などを、
私たち全員(集合意識)で、信じ込んでしまっている為に、
それらが「当たり前になってしまっている世界」のことです。

また、それらで作り上げた「マトリックスの骨格」、つまりハード面があります。
どちらかと云うと、こちらのハード面の方が先に作られたのかもしれません。
このハード面は、ごく少数の人たちで作り出しているものです。

まず、これらに気付くところからスタートします。


「この世界」の主人公は、「私」です。
この「私」をよく観てみると、どこにも居ないことに気が付きます。

ちなみに、身体は、「私」ではないです。
身体は「世界の中」にあります。
目の前のコップと同じところにあります。

が、「私」はどこにいるでしょうか?

「私」は、単なる架空のイメージなのです。

私には、私が観れません。
他者が居ないことには、私は観れないのです。

つまり、他者側から見ているイメージが「私」の正体です。
それはつまり、「他者、集合意識」を取り込んで、「これが私だ」と錯覚していると云うことです。

だから、この「私」は、他者(集合意識、思考)なのです。
つまり、記憶です。

この「私」が、「檻、マトリックス」の正体です。
だから、「集合意識に埋没するな」なのです。

すると、“本来のエネルギー”が現れてきます。
いつもここに在ったもの、無制限の空、悠久のようなエネルギーが現れてきます。

そこから中心みたいなものが現れてきたら、それが“本当のわたし”です。

ここでは思考が沸いてこず、代わりに洞察みたいなものがあります。

ちなみに「ヒャー、やったー」と云うような今までの喜びは、
感情であってエゴ(思考の反応)です。

そうではなく、「私」から出ると、すこぶる開放感と自由があります。
抵抗するものが何も無い状態になります。

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「私」から出るのだ。

NO.187

「反応しているもの」は、“わたし”ではありません。

それは、「私」(マインド)の自動操縦が起こっているだけです。

“わたし”は、その「反応以外」です。

その残りの全てが、“わたし”です。

――――――――

「私」(マインド)から脱出する。


「私」と云うのは、「思考、感情、私だと思いこんでいるもの・・」のこと。
これらがマインドであり、「反応している本体」であり、「私」の正体です。

しかし、
この「私」は、他者から見ている私であり、
鏡に映っている方の私であり、
本当の私ではないのです。

私は今まで、この「私」を、私だと思い込んできました。
だから、ずっと、この「私」(マインド)でやってきました。

これは、「私」(マインド)の範囲しか無かったと云うことです。
それ以外を、認識することがほとんど出来なかったと云うことです。


しかし、もし、この「私」」から出ることが出来れば、
そこには、「私」(マインド)以外」の、“全てのエネルギー”が在るのです。

そちらが、“本当のわたし”です。

そこに現れているのが、“わたしの世界”です。

そこには、今のところ限界が見当たりません。
しかし、何かをしようとする欲もあまりありません。

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