あいだにあるもの(クオリア)

「私の首から下の身体」は世界の中に在ります。 “わたし”はその世界を外から観ているものです。 

“本当の未来”と云うものがあるとするならば。

NO.194

このまま行けば、「未来はこう成るだろう・・」と、“未来”を予想してみても、
それらは、何ひとつ「正解」ではありません。

「こう成るだろうと予想したもの」は、
「今までの経験」から割り出された「未来」であり、
それは、”未来”などではありません。

“本当の未来”と云うのは、想像が出来ない“未知の領域”のことです。
それは、“まっさらなもの”です。

だから、たとえ「ほら、想ったとおりのことが起こったじゃないか」としても、
それは「想ったものとは違っている」のです。

そこにあるものは“生きているもの”なのです。
だから「私が考えた未来」は、全てが「ハズレ」なのです。

“本当の未来”と云うのは、“ここ”のことです。
“ここ”の突端のきっかかり。

“冒険が踏み出している位置”。

そこにあるのが、“本当の未来”です。

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本来の生産。

No.193

● “世界と共に生産していく”
   “この場所”から、自然と「生産」に成っていく。

● 「私が獲得するために生産してゆく」
   「足りないと云う欲望」から、それを「獲得するため」に創ってゆく。
   

本来、「生産する」と云うのは、
「獲得」が前提にあって、「何かを創り出す」と云うことではありません。

“本来の生産”と云うのは、
「ここに在るエネルギーと共」に、
何が産み出されるのか「期待しないまま進んでいる状態」のことを云います。

その「進んでいる状態」、「世界が移り変わっている様子」が、“本来の生産”です。

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父と母は、私が生まれてから誕生している。

NO.192

私が熟睡すると、何も無くなります。

これを聞いて、あなたは私に「こう言う」かもしれません。
「あなたが寝ていたときも、私はテレビを見たり、おやつを食べたりしていたよ」と。

しかし、これは「私が起きてから、私が聞いたこと」です。
私にとっては「あなたが見ていたであろう世界」は存在しないのです。

さらに、私は「あなたの世界があること」すら知る術はありません。

しかし、「あなたが、あなたの世界のことを私に伝えたこと」は、「私の世界」に登場しています。

ただしこれも、「私の世界の出来事」です。

これをもっと進めると、「父と母は、私が生まれてから誕生した」と云うことになります。

「私の世界」は、私が認識して初めて登場するのです。

これはつまり、「目の前にある世界の主体」は、ただひとり、“私のみ”だと云うことです。

私にとっては、「他の世界」は存在しないのです。

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「主体」の位置の違い。

NO.191

● “わたし”が主体に成っているときは、
   私を中心として、私の周りを、「世界の方」が回ります。

   私が世界をまとっている状態です。


● 「思考」が主体に成ってしまっているときは、
   思考(他者)を中心として、他者の周りを、「私」が回ってしまいます。

   世界に振り回されている状態です。

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神。

NO.190

“わたし”は、私の動きに気付いている。


昨日、私がやったことを、今、思い出せるのは、

昨日、私がやっていたときに、“観ていた者”がいたからである。

この者は、私が何かをしているのを、いつも知っている。

いつも後ろから、私を観ているのだ。

これが“本当のわたし”
つまり、神である。

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